20210211 大名も民も千葉街道を往来する
【旧千葉街道 (元佐倉道): 日本橋~市川宿】
<資料編>はこちら.
本日は旧千葉街道を歩くことにした.
元はと言えば,江戸六地蔵の対応する街道を歩こうと思っていて,六番目の永代寺が千葉街道沿いということになっているところから始まった.
だけど永代寺から千葉街道は遠く,六番目の地蔵は造設した僧の家から近かっただけで,千葉街道とは関係ないらしい.この辺りは別途まとめたい.
そもそも永代寺から千葉街道が近いのかどうかという以前に,千葉街道がどこにあるのか同定するのが意外と難しかった.「千葉街道」という呼称は,明治時代になってからのようで,江戸時代のどの街道が該当するのかが分からない.
しかし,日本橋から千葉方面へ向かうルートは,元佐倉道,佐倉道,行徳船ルートしかないようだったので,陸路の元佐倉道 (南) か佐倉道 (北) が千葉街道だろうと見当を付けた.
ルートを決めるにあたり,宿場が目安になるのだけれど,佐倉道の宿は千住宿-新宿 (にいじゅく: 金町と亀有の間) - 松戸宿だと思われる一方で,元佐倉道の宿は調べきれなかった.結構距離があるが,市川宿が最初の宿なのかもしれない.
いずれにしても,今日は元佐倉道を歩く.誰が何といっても,歩くのだ.
日本橋から北,浅草橋に向かい,京葉道路,つまり国道 14 号線にぶつかったところで東に向かうルート.
日本橋から浅草橋は日光街道 (奥州街道/水戸街道) の時に歩いたので,浅草橋駅から開始.取り敢えず「山笠の龍」という店のラーメンで腹ごしらえ.結構うまかったけど,麺は柔らかめ.
山笠の龍: ★★★☆☆ (まぁ,普通?)
両国橋に来ると「表忠碑」という大きな碑がある.裏には「明治三十七○□役戦病死者」と書かれ,位と名前がびっしりと書かれている.時期的に日露戦争か.「元帥侯爵大山巖書」.(○と□は読めなかった).
両国橋の袂には,百本杭の説明が書いてある.
1930 年に荒川放水路が完成するまで,墨田川には荒川,中川,綾瀬川が合流し,墨田川は水量が多かった.湾曲が強く流れが強かった両国橋周辺には数多くの杭が打たれていた.歌舞伎にも出てくる名所の由.<資料編参照>.
両国橋を渡ると,京葉道路を離れて南に曲がり,突き当たりを東へ.竪川,つまり首都高 7 号小松川線沿いの道が,元佐倉道である.
途中,「一之橋」の横を通る.赤穂浪士が泉岳寺に引き上げる際に最初にわたった橋 <頁末参照>.
低いビルが立ち並び,人通りはなく,風は強いが寒くはない.気温は 14 度.絶好の散歩日和.
出羽海部屋があった.大きなビルの一階は戸が開け放たれている.
墨田区は時々看板が出ていて,嬉しい <資料編参照>.
閑散とした住宅街の中を黙々と歩く.
途中,江戸時代から続く,中田屋茶舗という名の茶の店の前を通る.看板が出ていなければ通り過ぎてしまっただろう<資料編参照>.
錦糸町の近くの橋で道が突き当たるので,一本北の通りへ一旦出て,元の道に戻る.この道は昔はつながっていたのだろう.
途中のコンビニでトイレを借りたら,2021 年 4 月発のピースボートの広告が貼ってあった.乗員 500 名は厳しいのではあるまいか.
更に歩を進め,ラブホテルが立ち並ぶ一帯を通り過ぎる.
時々道をまっすぐに行けないので,少し北の道路にずれては戻る,を繰り返す.
そして!竪川河川敷公園 (亀戸一丁目) のところで!「旧千葉街道」の標識発見!
やはりこれが千葉街道か!
道沿いに神輿庫があり,街道感を盛り上げる.
旧中川を渡るところに逆井の渡し跡を示す看板が <資料参照>.
元佐倉道と中川の合流点であるこの渡しは,一艘が亀戸村,一艘は西小松川村持ちの船が備えられていたらしい(新編武蔵国風土記稿).現在では逆井橋で渡ることが出来る.
橋を渡ったところで,小松川神社へ.新しい神社であるが,割と大きい.境内には二つ末社がある.一つは朱色の鳥居が二つある稲荷神社,もう一つは無垢の鳥居の中に野外宮が二つある.
社務所の呼び鈴を鳴らすと,誰もいないのだろうかと不安になるほどの間があってから,何故か縁側から小柄な男性が顔を出した.白髪混じりの髪は角切り.
「何か御用でしょうか?」
御朱印を頼むと,「うちはこんなんですけど」と何だか済まなそうな顔をして書き置きのものをくれた.
荒川の手前で北に移動し,国道 14 号線 (京葉道路) に出て,小松川橋で荒川を渡る.
雨が降ったわけでもないのに,水が滔々と満ちている.風は相変わらず強く,向かい風に対抗する自転車の人の顔は必死だった.
橋を越えたところで京葉道路から階段を降りて,荒川沿いに北上し,道なりに五分一通りという道で北東へ向かう.
足が疲れたので,喫茶店でもないものかと探すが見当たらない.破れた布のひさしが風に翻っている店がいくつかあるのが,うら寂しい.
五分一橋跡に元佐倉道沿いで栄えた,という記述あり.やはりこの道は元佐倉道で間違いなかった<資料編参照>.
更に歩くと,八蔵橋という橋の跡地に千葉街道の由来を示す看板が!<資料参照>
逆井の渡しから小岩に至る道筋は,慶長末年当たり前後あるいは万治二年あたりまでのほぼ五十年の間に整備されたと考えられる.
明治 8 年に元佐倉道 (少なくとも両国橋から市川までをそう呼んでいた模様) を千葉街道と改称.
昭和 27 年以降,今日歩いてきたルートの八蔵橋以西が旧千葉街道と呼ばれるようになったという記載が <資料参照>.これで日本橋と千葉が繋がった.
さて,旧佐倉道は,八蔵橋で国道 14 号線,現千葉街道と合流する.なお,現千葉街道は,この交差点を南下し,京葉道路と交わるところ (東小松川交差点) を起点としている.
この交差点で国道 14 号線は千葉街道と京葉道路の二本に分かれるので分かりづらい.
八蔵橋と東小松川交差点の間がいつから千葉街道なのかは分からない.1957 年に国道 14 号線のバイパスとして京葉道路ができたときに,この道が作られ,千葉街道となったのではないかとと推測.
八蔵橋からの千葉街道は太くて,あまり面白みはないが,淡々と歩く.
途中,本一色町に北野神社というところがある.新小岩厄除香取神社を遥拝 (実際に参拝する代わりに訪拝する) し,社務所もない小さな神社であるが,1819 (文政 2) 年の道標が残る神社なのだ (元はこの神社にあったわけではなくて,移設されている).
ここには,上小松/平井道,市川道,新宿道へ至るとの記載がある.そう,交通の要所だったのだ.
小岩を過ぎたところに一里塚の交差点があるが,塚どころか看板もない.ちょっと寂しい.江戸川区教育委員会は,検討した方がいい.
一里塚を過ぎて数分で市川橋へ.橋の向こうは千葉県.
しばし江戸川を眺めたのち,周囲を散策することにした.
市川橋の手前の細い道を北上すると御番所町というエリアに至る.街道を示す碑と御番所町跡を説明する看板あり.ここは,北の千住宿を通る千葉への道,つまり佐倉道と,今歩いてきた浅草橋からの千葉への道,元佐倉道が合流する地点だ.
ここにも佐倉道と元佐倉道の合流値を示す道標がある <資料編参照>.
ここで江戸川の堤防へ出ると,市川の渡しの看板がある <資料編参照>.看板から市川橋を眺めると,暗い住宅地の江戸川区側と,タワーマンションの光が目立つ市川側とのコントラストが目立つ.
市川は万葉集や歌川広重の浮世絵にも見られる歴史のある町で,江戸時代には宿場町 (市川宿) があった.
本日の旅はここで終了.浅草橋から 4:30. 看板や神社に足を取られたとしても,相変わらず鈍行運転.
まぁ,遠くには行けないのだし,この程度でいいだろう.
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