20210320 水戸街道は真っ直ぐではない

【旧水戸街道: 千住宿~新宿 (にいじゅく)~金町関所】

<資料編> はこちら


ターリー屋でキーマカレーを食べた後,北千住駅に向かった.

前回 2021/1/2 に日光街道を歩いていたときに通った,日光街道と水戸街道の分かれ道.


まえ,地図で示した通り,日本橋から,日光街道・奥州街道・水戸街道は同じ道を北上し,足立区の千住宿で水戸街道が東に分かれる.

日光街道から,各分岐点で,それぞれの街道が始まっている,という説もある.

この「同じ道」は通常 (旧) 日光街道と呼ばれているのだが,江戸六地蔵では奥州街道と呼ばれている.だから僕は,それぞれの街道が日光街道からの分岐点で始まっているのだというのをためらってしまう.

それはさておき,葛飾区の新宿 (にいじゅく) で北東に向かう水戸街道から南に分かれるのが佐倉道.それ故に水戸街道は水戸佐倉道とも呼ばれている.


さて,北千住.


観光協会 (千住街の駅) で黄色のはっぴを着た男性から「千住宿歴史ウォークガイドブック」なる案内本を買い,商店街の真ん中を通る旧日光街道を北上する.

それにしても千住だけで案内本が二冊!誰か地元愛に溢れた仕掛け人がいるに違いない.

発行は NPO 法人千住文化普及会.第 2 巻は 2021 年 3 月の発行なので,出来立てのほやほや.目次は <資料編参照>.

自宅への郵送もしてくれるので,是非.


はっぴの男性と少し話をした.旧日光街道の幅は四間,旧水戸街道は三間とのこと.千住の北の方,水戸街道より北に,下妻街道と呼ばれる道があることも教えてくれた.


千住街の駅: ★★★★★ (とても小さい施設なのだけれど,はっぴの男性の話は尽きることなく,いくらでも聞ける.ガイドによる町歩きは,なんと 500 円/人!もう一度行きたい,いや,行かねば,と思わされた)


さて,旧日光街道を北へ向かうと,千住宿の北の端,八重桜の公園のところに水戸佐倉道の碑が.

東へ右折し水戸街道を歩く.いや,今日は千葉への敬意を表して「水戸佐倉道」と呼ぼう!


この道の向こうで佐倉,即ち千葉の牙城が待っている!


つくばエクスプレスと東武伊勢崎線を横切ると,荒川にぶつかる.昔はここには川はなかったので,往時はまっすぐ道が伸びていた筈だ.


荒川の土手.

泳いで渡るにはちと寒いので,北にある千住新橋で向こう岸へ渡ることにした.


河原では若い女性がトランペットの演奏をしており,野球をする子らの声が響く.サイクリング.スケートボード…….のどかだなぁ~.


昔は今の隅田川 (の一部) を荒川と言っていたが,氾濫を防ぐために今の荒川 (荒川放水路) が作られた.

千住街の駅の男性は,「大川と呼ばれていたこともあるんですよ,と教えてくれた (吾妻橋より下流は大川と呼ばれていた).

この時代の影響で荒川区がそう名付けられた,とも.

ちなみに,荒川放水路が出来た後も,現墨田川 (の一部) が荒川と呼ばれていた時代があったようだ (綾瀬川合流部より以南が墨田川)


川事情は複雑なので,いつか整理したい.


さて,荒川の左岸を降りると,水戸佐倉道の続きがある.普通のお宅のフェンスにパウチされた表示に,水戸佐倉道の文字が <資料編参照>.

更に歩を進めると,綾瀬川に突き当たる.架かっているのは水戸橋 <資料編参照>.


水戸佐倉道に沿って古隅田川という小さな川が流れている.中川から綾瀬川に向かって流れているらしい.

墨田川,結構親しく生きてきたつもりだったのに,お前も僕を混乱させるのか!


水戸佐倉道の途中で蓮昌寺という寺へ.

お賽銭の割に過多なお願いをしてから,寺務所へ行き,御朱印をお願いした.

出てきた男性は,ちょっと口籠もりつつ「時間かかりますよ?」と御朱印帳を受け取ってくれた.もう夕刻.今日の仕事は終いにしたいよなぁ,と他人事のように同情した.

歩を進めるのだけれど,歩いているうち,ふと仕事の失態など思い出す.やめとけ,やめとけ.今日は休日だ.

だけど,べったりとした沈鬱な感情は,僕をからめとり,立ち止まらせる.


歩け.進め.


自分を叱咤激励する.もし,そこが己の安住の地でないなら,旅立つしかない.逃げかもしれない.でも,出会うものに驚き,歓びを得るならば,旅はお前がいるべき場所なのだ.


少し翳っているが,向こうの方の空は明るい.風はゆるく,歩きやすい.


何もないかに見えた住宅地の一角に,「旧水戸佐倉道」の看板が.ん?旧?「(現) 水戸佐倉道」なんて存在したっけ?「(現) 水戸街道」と区別しているだけかな.

住宅街を黙々と歩く.

西亀有3丁目の交差点で,旧水戸佐倉道 の真新しい碑.

ここで右折し,太い道を歩くことになる.


道上小学校東の交差点に,「旧水戸街道 亀有上宿」の新しい碑が.こんな所に宿が?と思って調べると間の宿 (あいのしゅく: 宿と宿の間の休憩所) らしい.

更に歩くと,「一里塚跡」の看板 <資料編参照> と,水戸黄門の像が!


…….


中々独創的な像である.


新宿小学校西で,何故か水戸街道は南に折れる.まっすぐ行っても良さそうなところを凹字型に迂回するのだ.


謎を解くべく,歴史のありそうな「中屋のせんべい」という店を見つけて,話を聞いた.

代々この地でせんべい屋をやっているという亭主は「昔は地元史を自費出版する詳しい人がいたんですけど,だいぶ前に亡くなってしまったんですよ」「私は全然知らないんですけれど」と物静かに断ったが,なかなか有用な情報を得た.ちなみにせんべいは旨かった.

中屋のせんべい: ★★★★★ (僕は美味しいものを食べられて歴史を語ってくれるところが好きだ)


即ち,現在新宿小学校があるあたりは大きな池があった.

そして旧水戸街道が出来る前には,佐倉道の分岐部のあたりで,佐倉道に繋がるように北上する細い道があった (この道の名前は分からない,と言っていた).この道は池の北側を回り込み,中川の渡しに至る.昔,中川橋のところは渡し (新宿の渡し) があったのだ.


明治 13 年の地図を見ると,この細い道と旧水戸街道の関係が分かりやすい.

しかしこの道が細かったので,旧水戸街道が作られた由.葛飾区のウェブサイトを見ると,この道が凹になっているのは,敵が攻めてこられない様にしているためらしい.この地域に寺や神社が多いのも,いざというときに隠れるためのものだとか.この辺りは金沢を髣髴する.

千住宿はそのようになっていなかったので,千住宿は多方面から来る栄えた宿であったので公的な要素が大きかったのに対して,新宿は比較的小さく,水戸の殿様を守ることが前面に出ていたということだろうか.


ちなみにこの池は,こちらのブログを参照すると生洲という名前だったらしい.


また,せんべい屋のすぐ横にある山王保育園の場所にかつては本陣 (貴人のための宿) があったそうだ (長屋門: 上記葛飾区のウェブサイト参照).足で稼ぐ情報は,興奮するなぁ.


せんべい屋から少し東に歩くと現水戸街道に出て,その角に「さくらみち」の碑が <資料編参照>.碑には「左 水戸街道」「右 なりたちば寺道」.


「なりたちば寺道」はくずし字があるので,備忘録.

な -> こちらの「餅菓子即席」9 個目をご参照

ば -> こちらの「おらが春」3 個目をご参照

寺 -> こちらの「おらが春」2 個目をご参照

道 -> こちらの「源氏物語」をご参照

水戸街道の「道」は判読できるのに,「ちば寺道」がくずし字な理由は不明.


ここ,さりげなく強調したいが,元佐倉道が旧千葉街道であったのに対して,佐倉道は千葉寺道 (or 成田道) と呼ばれていたのだ.

千葉街道がどこなのか,という問いに対する答.旧千葉街道は,元佐倉道.名前が似ているだけで,佐倉道が千葉寺道なのとは別物.


さて,旧水戸街道を歩き継ぐべく,碑から北上.数分歩いた所にあるセブンイレブンのところを右の二車線の道に入る.


更にまっすぐ行くと,再度現水戸街道に合流し,金町広小路の交差点で旧水戸街道は現日光街道から左側に分かれる.


葛飾区東金町 3 丁目の陸橋を東に渡り,細い道を入る.


そして江戸川に出て,川沿いに北上.すでに暗く,ほぼ人通りはない.向こうには千葉の光が見える.


ああ,千葉!緊急事態宣言などなければ,訪れていたものを……!

……まぁ,既に暗いんで,緊急事態宣言なくても,行かないけどね.


さて,江戸川沿いの小合溜というところに,昔は渡しがあったようで,江戸への出入りを管理する金町関所跡がある <資料編参照>.

本日はこれで終了.約 12 km の旅であった.疲れたなぁ.僕,体力ないんだろうな.やはり毎週街道を歩くくらいでないといけないのか.


次はどこを歩こうかな.やはり新宿 (にいじゅく) の池を迂回する旧道を歩いたのち,佐倉道かなぁ.明日緊急事態宣言が解けるらしいし,東海道を歩くという手もあるけれど…….



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