20240103 食べることは生きること。カミもヒトも。


【東海道:四日市宿~石薬師宿~庄野宿】

料亭旅館だけあって、朝食もなかなか豪華。

大正館:★★★★☆(泊まれる料亭という感じで、飯も雰囲気もいいんだけど、宿としては少し寛ぎづらい)

宿から旧東海道を少し戻り、笹井屋へ。なが餅一筋、創業は天文十九(1550)年。
キャッチフレーズは「戦国時代から愛される味」。


八丁味噌の「まるや」は、1337 年創業なので、ずっと古いんだけど、「旧東海道沿いで、当時の旅人と同じものを食べた」というのが、イイのだ。
日常の憂さを忘れて、一瞬で旅人モードに入れる。

戦国時代、農兵であった僕は、立身出世など望みもせず、餅を食いながら「番茶は沸かしたての湯が旨いな」などと新年の空を眺めたことだろう。
田植えまでに帰りたいなぁ。干し柿干しっぱなしだけど、カビないといいなぁ。

「なが餅って、色んな名前で呼ばれてたんですね」

店内で買ったばかりのなが餅を食いながら、置いてあったリーフレットに目を通し、いつもどおり店員にからむ僕。


「そうなんですよ、日永の餅って、昔は言われていて、そこから、なが餅って」
「あれ?日永って、ここらへんの地名ですよね」
「そうなんです。元々は日永に茶屋があって。戦後、今の場所に移ったんです」

それでも、昔ながらの作り方を守ってきたのだ。

「戦後はリヤカーで売ったりしてた時期もあるんですけどね。落ち着いてきたから、こちらに店を構えて」

焼け野原でリアカーに載せた餅を売る先達を思い浮かべると、胸が熱くなる。
文化の継承という責任感があったのか、生き延びるために、有効な技術であったからなのか。
いずれにしても、戦国時代の味を受け継いでくれたことは、感謝と驚嘆の念を覚える。


「じゃあ、なが餅、てのは笹井屋さん独自の名前ではないんですね」
「ええ。うちの他にも、四日市に一軒、桑名に二軒」
「でも、笹井屋さんが、一番古く江戸時代からやっている、と」
「イエ、うちは戦国から……」

イカンイカン。

ちなみに、四日市の金城軒(慶応4(1868) 年創業)の太白永餅と、桑名市の永餅屋老舗(寛永11 (1634) 年創業)の安永餅、同じく桑名市の柏屋(創業は江戸時代ではあるが年代不詳)の安永餅のことを指していたのだと思う。

再度旧東海道を進むと、諏訪神社に着く。四日市・浜田の総産土神(うぶすながみ)である、と看板に書いてあった。
産土神は鎮守と一緒で、その土地に生まれた者を死後も守護する神で、一族を守る氏神とは少し違うのだが、区別が明確でないことも多い。

屋台はなく、境内に焚かれた火で近所から来たと思しき参拝客が暖を取っており、規模は大きいが、ほのぼのした雰囲気である。

「福豆売ってますけど、これ、今買って、節分に撒くんですか?」

社務所でふと聞くと、フリースに白衣をはおった売り子の少年たちが顔を見合わせる。

「はい……多分…」

多分、彼らにとっては、当たり前のこと過ぎて、何を聞かれたのか分からなかったのかもしれない。
あとで宮司らしき男性に「この辺りは、そうされる方が多いですね」と補足を頂いた。
僕は福豆を正月に入手し、節分に撒く、という文化を知らなかったので、印象的であった。

こちらの諏訪神社と、近くの大宮神明社で見かけた門松が、独特であった。

大宮神明社のご内儀さんに伺うと、この地方の門松は、竹の稈(かん:樹木の幹に当たる部分)は入れないという。
年末に、氏子さんたちが松・竹の葉・梅・御壺御器(おつぼごき)などで門松をこしらえるのだという。
ちなみに写真の門松は、梅は入っていない。

「御壺御器?」
「ええ、藁で、神様の食べ物を入れる器を作るんですよ」
「我々が、食事に困らないよう祈るために?」
「いえいえ、神様に差し上げるんですよ~」

キリスト教の主の祈りでは「本日われらの糧(かて:食べ物)を与えたまえ」と、ヒトに食事を与えてくれるよう祈るけれど、日本神道は、ただ、神に捧げるのだな、と興味深かった。
一神教の神は、強大で、与える側であるのに対して、多神教の神は、ヒトより能力のある、ちょっと上、敬愛するセンパイくらいの立場ということなのかなぁ、と思いながら、辞した。

こちらが御壺御器。信州で「おやす」と言われているものと似ている。
伊勢では「つぼき」とも呼ばれ、単独でも飾られるらしい。

昼食は旧東海道を少し北に外れて、虎三治(こさんじ)なるフュージョン和食系の店で。

パセネージソースでいただく牛ハラミ肉炙り焼き定食3500円。

高いので迷ったが、鄙びた土地で頑張っているので、奮発してみた。
全体として、丁寧に作ってあり、ちゃんとした味。盛り付けも良い。



 
虎三治:★★★★☆(立地を考えて少しおまけ。旅人的には土地の食材をもっと入れて欲しいけど、地元民にはウケないのかも)

東海道に戻り、歩き始めるとすぐに、日永神社に着く。
本殿の横にあるのは、明暦二(1656)年に建てられた、東海道最古の道標と言われている。
門松に竹はなく、御壺御器もない。南天あり。

更に進むと、突如、急な坂に行き当たる。
杖衝坂(つえつきざか)である。

坂、ノーマークだったなー。
息を切らせながら登る。


古事記にヤマトタケルが疲れちゃって杖を使って歩いたから、杖衝坂と名付けられたとか。
更に、芭蕉が落馬して「歩いてたら杖ついたんだけど、馬乗ってたもんだから、落馬しちゃったよ(歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな)」と詠んだりと、味わい深い。
坂の上にはヤマトタケルの足の出血を封じた社まである。

まあ、味わい深いっていうか、僕、息切れして、かなり小休止しました。ハイ。

てなこんなで、石薬師時宿到着~!

本陣が意外と残っている。

ここらあたりからかなりの田舎道になり、明かりのない田んぼ道を歩くことになる。
バスも滅多に通らないので、バスに乗るとしても、一時間近く何もないところで待つことになる。

なので、心を無にして歩くのみ。

今回は,石薬師宿と,庄野宿の間くらいで終了。

加佐登駅から関西線で名古屋駅に移動し、食事は駅ビルで。
本当は名古屋飯を食べたかったのだが、それ系の店は長蛇の列であった。
三が日最終日だもんな~。

ので、飛び込みで席のあった、京風とうふ料理の店「八かく庵」へ。

季節の一汁八菜御膳2500円。

コスパ最高。京風、と言いつつ、京都には店舗ないんだけどね。
次も楽しい旅となりますように。

八かく庵:★★★☆☆(3.5 寄りの 3.0. いや、3.8 くらいでいいと思うんだけどこれで星4つもつけてたら、京都で星が足りなくなりそうだから……。食事はよかったけれど、まぁ、駅ビルだしね)

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