20240102 唯一の海路は文化を分かつだろうか
【東海道:笠寺~桑名宿~四日市宿】
メニューは昨日と余り変わらないけど、つくだに街道のアミとアサリの佃煮を追加。
「つくだに街道」は、知多半島の南部にある佃煮メーカーである。
昭和24年創業なので、東海道的には新しいが、南知多の文化財観光なども推進しているので、注目している。
https://www.tsukudanikaido.jp/
名古屋笠寺ホテル:★★★☆☆(家族連れやスーパー銭湯好きにはオススメ)
現在は東海道唯一の海路「七里の渡し」はないので、ホテルを発ってから電車で、渡しの反対側、桑名へ向かった。
関西本線で、揖斐・長良川の背割堤(間の浅瀬)を越えるところ。
この二つの川に木曽川を加えた「木曽三川」のせいで、このエリアは橋を渡すことが出来ず、東海道唯一の海路が選択されたのだ。
桑名駅で降りると、いきなり「桑名宿」の字が目に飛び込む。居酒屋「しちり」の名は、間違いなく七里の渡しから来たのだろう。
電車とバスを乗り継ぎ、渡しに到着。
遂に伊勢國に到着!
2020 年秋に初めて伊勢に来てから、苦節三年。
……って、別になにも苦労してない気もしてきたな。
まぁいいや。
伊勢入国をを示すのが「伊勢国 一の鳥居(三重県指定文化財)」。
伊勢神宮の鳥居を、桑名の総鎮守である春日神社が譲り受けて、七里の渡しに設置している。
鳥居のすぐそばにあるのが、盤龍櫓(ばんりゅうやぐら)を復元したもの。
桑名城の櫓の一つであるが、渡しの近くに建っていることから、東海道を往来する人々は、桑名のシンボルとして認識されていた。現在見つかっている最古の記録は、正保年間(1644~48)の絵図だという。
昼はうどん屋「歌行燈」で。
正月にやっている店が少ないこともあり、かなり待たされた。
桑名を舞台とした泉鏡花の小説「歌行燈」にうどん屋が出てくるのだが、そのモデルがこの店の前身「志満や(明治十年創業)」である。
ちなみに歌行燈に出てくる「湊屋」は、桑名の本陣跡地に建てられた「船津屋」という、料亭旅館がモデル(現在は結婚式場となっている)。
しっぽくうどん700円。かまぼこ、のりの天ぷら、みつば、花かつおが乗っている。
しっぽくうどんは一般的に、野菜と油揚げを煮込んだものを、茹でた讃岐うどんにかけた、香川の冬の郷土料理を指すが、桑名ではかけうどんのことである。
歌行燈店内に、昭和二十八年頃の舌代(メニュー)が飾られているが、並うどん二十五円の横に、志つぽく三十円と書いてある。
「……!」
一口汁を啜り、その旨さに脳が爆ける。
毎朝、数種類の鰹節をブレンドして取っているという出汁は、上品かつ鮮烈な香りを放っている。
口に含んだ汁はまず舌先を驚かせ、口腔内全体に広がると、魂が溶けそうになる。
塩気よりも旨味と香りにずっしりと軸足を置いた、まさに西の味だ。
ちなみにお姐さんは「数種類の鰹節」と言っていたが、味のふくよかさを考えると、ムロ節やサバ節も使っているのかも知れない(お土産用の出汁に入っていた)。なお、土産の出汁に昆布は入っているが、店の出汁に昆布は入っていないと言っていたので、おそらくレシピは異なる。
うどんも具も、素晴らしい。
大焼蛤(三個)1800 円もプリプリとした身を頬張ると、ほろ苦さと旨みをふんだんに含んだ汁がほとばしる。
歌行燈 本店:★★★★☆(とても旨いので食事はオススメ。東海道としては歴史が浅めなので、星一個減らした)
しかし、並んでいる時間も含めると、時間を使い過ぎた。
今日の宿は飯付きなので、早足に町を抜ける。
神社仏閣は多いが、基本的には住宅街。
城南神社。伊勢神宮の遷宮の際に内宮の第一鳥居を下賜される神社である。
先ほどの渡しの鳥居もそうだが、笠木(鳥居の一番上の横木)が反っておらず、貫(ぬき:鳥居の二番目の横木)の両端が柱の外側に出ていない、神明(しんめい)鳥居、つまり伊勢神宮の様式であることが確認できる。
ところで、桑名で伊勢神宮の一の鳥居、という言葉が二回出てきたので間違えそうであるが、七里の渡しのところにあるのは伊勢神宮内宮の入口にある宇治橋の、外側の鳥居で、これは元々は外宮正殿の棟持柱の古材から作られている。
これが「一の鳥居」と呼ばれているのは、江戸から来た旅人にとって、伊勢國への第一歩だから。
それに対して、城南神社に下賜される伊勢神宮内宮の第一鳥居は、宇治橋を渡って更に進んだ、もっと内側、手水舎と御手洗場の間にある。
ちなみに各鳥居は伊勢神宮の遷宮に合わせて20年ごとに建て替えられ、その時に、春日神社や城南神社に贈られるのだ。
せっかく伊勢の国に来たのに、伊勢神宮に詣でないものだから、絞り出すように神宮を想起し、お参りした気分になっておく。
厳しい自然に曝されながらも、この邦がどうか、豊かで穏やかでありますように。
とか何とか言っている間に、多賀大社の常夜灯の辺りで、だいぶ陽が傾いてきた。
こりゃ、夕飯、間に合わないなぁ。
仕方ないので、宿に電話をかけて、遅くしてもらう。
「大丈夫ですよ~。9時より遅くなると、温めなおしになりますけど~」
富田の一里塚跡。
富田は焼蛤で有名なエリアで、富田六郷といわれる六つの村を含んでいる。現在は四日市市に属するが、かつては桑名藩領であった。
桑名というと焼蛤を思い浮かべるが、正確には、焼蛤が有名だったのは、桑名宿と四日市宿の間にある、富田村である。
桑名藩ではあるが、宿の外。
桑名宿で有名だったのは、焼蛤ではなく、しぐれ蛤(佃煮)なのだ。
ここね、試験に出ないけど、知ってるとみんなに自慢できるよ。
僕、すでに友人らに知識を披露して「正月、満喫したんだね。良かったね」って温かい言葉をもらった。
富田に関しては、立場(たてば。宿と宿の間の休憩所。峠の茶屋程度の規模)という記載の看板もあったが、間の宿(あいのしゅく。もっと規模が大きい)という記載の方が多い。
歩いてみると、結構範囲が広いので、立場から間の宿に発展したパターンと思われる。
三ツ谷の一里塚跡。
この手前に四日市宿の追分があるはずなのだが、見落としてしまった。悔しい……。
ひたすら歩き、日もすっかり暮れた頃、老舗菓子屋の笹井屋の前を通る。
ここは明日出直す予定。
脚にここ数日の酷使が染みわたり、一歩ごとに疲れと痛みが響く中、タクシー呼ばないと、ここで夜を迎えるのではないか、と思う頃、宿に着いた。
大正館。
大正三年創業の、料亭旅館である。
歴史を紐解くと、菓子屋になったり、ビリヤード場になったり、なかなかアツい。
取り敢えず、風呂に入り、部屋でくつろいでみたが、でも……。
何かが変だ。
「?」
部屋をしげしげ観察して気付いた。この部屋、控えの間が二つもあるにも関わらず、洗面台も広縁もなく、冷蔵庫もない。
障子を開けると、濡れ縁というより、玄関があり、広い庭が一望できる。
そもそも、部屋の中に、座卓椅子とテーブルが寄せて置かれていることから推察するに、恐らく、ここは、宿泊のための部屋というよりも、会食用の部屋で、泊めようと思えば客を泊められる、という間なのではあるまいか。
再度ウェブサイトで変遷を熟読し、苦労したのだろうなぁ、と、一人でしみじみした。
現在は料亭と名乗っているだけあり、食事は正統派。
三重の地酒、宮の雪など舌に転がしますれば、ふむ、江戸とは違うた、味わいが。
幸甚、幸甚。
ほっほっほ。
まぁ、でも、あれだね。
名古屋の味噌文化から、いきなり、西の出汁文化になるのは、海路で東海道が分断されていたのも影響してるのかなぁ。
日本橋から四日市宿まで、99 里(約 390 km)。
京都までが 126 里だから、随分来たものだ。
0 件のコメント