20231228 東海道で最も近い宿

【東海道:吉田宿(豊橋)~御油宿~赤坂宿~豊川】

今回は豊橋駅から開始。東京駅からこだまで約二時間。随分江戸から離れてきたもんだ。

今年の年末は全席指定席となったので、予約しておいた席に座り、優雅に車窓を……楽しみたかったのだが、昨日の夜も夜中まで忘年会だったので、朝飯用に買った梅握りすら食べる意欲が湧かない。

キモチワルイ……。

一足早く正月気分で盛り上がる乗客の声が脳に響く。
ひたすらにペットボトルの茶をすすり、体の回復を図る。

それでも歩き始める前に飯を食うことにして、豊橋駅からうどん屋に向かった。
お目当ては「にかけうどん」。三河のソウルフードである。

勢川本店:★★★★☆(やさしい味が地元で愛されている)


にかけ480円

かけうどんに刻んだ油揚げとほうれん草、かまぼこを乗せ、ふんわりと花がつおを被せたシンプルな料理である。
勢川では、昔ながらの醤油味と、この地方独特の醤油である白醤油を使った白にかけが選べる。
あっさりしていて、二日酔いでも美味しく頂けた。

さて、前回の終点、菜飯の「きく宗」まで戻り、東海道再開。

まずは大通りを外れて、北折。
途中、小さく復元された西惣門を眺めてから、鎮守の神明社を参拝。
ここが吉田宿の西の端である。


京に向かって歩を進めていると、途中「温故知新 日本の食生活に貢献し続けます ヤマサン」と壁に書かれた大きいビルを見かけた。三河商人を、ちと知ってやろうと思い調べたら、なんとヤマサンは元禄16(1703)年創業の老舗の食品会社であった。
米や菜種から搾油したのが始まりらしいが、そういえば菜飯も有名であったし、ここらはかつて、春には菜の花が咲き誇っていたのだろうか。

更に歩き進み、豊川放水路沿いに、三河のご当地ラーメン、ポンポコラーメンの工場を発見。お腹がポンポコになるまで食べてほしい、と名付けられたとか。作っている山本製粉は大正5(1916)年創立で、ポンポコラーメンは昭和39(1964)年の発売開始以来、味を変えていないそうだ。
懐かしき昭和の味を食いたい気はするが、オンラインでも買えるようなので、取り敢えず本日は看過。

以降は時々歴史のありそうな民家や神社のある、いかにも旧東海道らしい道をダラダラ歩いた。

途中、伊奈村立場茶屋という茶屋の立て看板に「東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で御休憩になられた」という記載が。


東京は京都と並ぶ二つの都の一つである(現在でも京都は天皇陛下の居所である)という立場から、明治天皇がメインの居所を京都から東京に移した時のことは「御行幸(おでかけ)」と記載されていることが多いので、珍しい。

京都の人なら「三河には西も東もよう分からんお人がおるんやねえ」とでも言うのだろうか。

そんなことを考えつつ、西へ、西へ。

僕は「ちゃんと歩ける東海道五十三次」に従って歩いているのだが、国府(こう)駅の手前でやたらに入り組んだ部分がある。
Googleマップでは国道一号線に誘導されると思うが、いずれにしても、当時の道は残っていないようだ。

総鎮守の大社神社にご挨拶。


イチビキは(1772)年の味噌屋で、豆味噌・たまり醤油のトップメーカーである。
屋号は買い付けの際に、俵ごとに大豆の質を確認し、質の良い俵のみに一本の棒(イチ)の印を引いたことから、品質のこだわりを示しているようだ。


古い企業が頑張っているのは、何だか応援したくなるが、それだけでなく、倉庫が蔵になっていて、雰囲気がいい。
僕は歴史を感じる街並みが好きなので、こういう企業は応援したい。

さて、東海道といえば家康が植樹させた松並木が至る所で見られるが、御油宿の松並木は最も当時の景観を残すものとして、国の天然記念物となっている(しかも第二次世界大戦中)。


そんなこんなで松並木を抜けると、もう赤坂宿である。
御油宿・赤坂宿間は十六町(1.5 km) しかなく、宿間の距離は、東海道で最も短い。
それゆえに、御油宿と赤坂宿は、まとめて一つの宿として扱われ、京から江戸に向かうときは、赤坂宿、江戸から京に向かうときは御油宿、というような使い方をされていたようだ。
いずれにしても、このエリアは「御油や赤坂、吉田がなけりゃ 何のよしみに江戸通い」などと狂歌に詠まれ、男性よりも女性の人口の方が多い遊興地ではあったようだ。

赤坂宿・御油宿は今でもイベントの多いエリアで、いつかまた来たい宿の一つである。
豊川市で作っているリーフレットには、こちらの祭りが載っている。
7月の国府夏祭り - 大社神社の祭り。歌舞伎行列・手筒煙火・大筒煙火などが見どころ。
8月の御油夏まつり - 手筒花火と厄男の神輿還御(しんよかんぎょ:お神輿が御油神社に戻る)が見られる。
8月の雨ごいまつり - 地元の青年が花魁や武士に扮する歌舞伎行列あり。
10月の杉森八幡社 - 大名行列と歌舞伎公演。(回り舞台を備えた農村舞台があったり、「小屋掛け」と呼ばれる竹ドームの屋根がついた観客席が再現されたりする)
11月の宮路やまもみじまつり - 数千本のコアブラツツジの紅葉(モミジでなくて、ツツジだけど、紅く染まって見ごたえがある)

「うち(赤坂宿)の宮路山は、持統天皇が訪れたことが有名でね……」

地元の話を聞いてみようと、明治元年創業の民芸店「尾崎屋」に寄ると、穏やかな店主が色々教えてくれた。

 持統天皇は、697 年に上皇となった後、生涯最後の旅として、鎌倉街道を通って大宝2(702)年に三河を訪れている(当時はいわゆる旧東海道と言われる位置に道はなかった)。
彼女は一か月くらい三河に滞在したが、その理由は不明である(「豊川の歴史散歩」)が、宮路山と赤坂宿の歴史は切っても切り離せない。
そもそも、赤坂、という地名は、宮路山に至る坂道が赤土であったからなのだという。
ちなみに東京の赤坂は、赤坂宿から来た髭やっこ(武家の奉公人で、かま髭がカッコいいと江戸の男衆から思われていたらしい)が集まっていたエリアだから、だそうだ。

赤坂宿といえば、文化6(1809)の大火(火事)が有名であるが、尾崎屋の店主が、赤坂宿の火事で急遽御油宿ができた、というようなことを言っていたが、そうだとすると宿の数が東海道が整備された当初、一つ少なかったことになってしまう。

東海道ができる前から鎌倉街道の宿場町として栄えていたエリアなので、文化の大火より遥か前に別の大火があったのかも知れないが、証拠は見つけられず。


いやー、赤坂宿、ノーマークだったけど、知れば知るほど面白いなぁ!
豊川の歴史をもうちょっと知りたいけど、大橋屋(旧旅籠を用いた資料館)も、16:30 で閉館しちゃったしなあ。

明日歩く距離が長いから、今日ちょっと歩いておくか、と進み始めた時。

「あッ!学習センターやってる!」

旅籠の裏手にある、生涯学習センターが 17:00 までやっているのを発見。
あと十分で閉館なので、必死に走り、飛び込むと、事務所では作業着のようなジャケットを着た50代くらいの男性職員が帰り支度をして、閉館時間を待っている。
2階に「赤坂宿場資料室」というのがあり、入るためには鍵を借りなければならないのだが、さすがの図々しい僕でも、これは頼みづらい。
そうだよね、年末だもんね。
仕事納めだよネ……。

「あっ!これ!この本、まだ買えますか?!」


事務室の受付に貼られた「豊橋の歴史散歩 500円」というチラシを指差した。

「あら~、金庫閉めちゃったのよね~。どうしようかしら~」

後ろから別の職員が登場。
困ったわ、といいつつも、奥から新しい冊子を出してくれた。

「どこから来たの?」
「東京です」
「あらあら、じゃあ、お渡ししないわけにはいかないわねえ」

いやぁ、いいものをゲット!こういう、自治体が作っている冊子、面白いんだよね~。

二人に良いお年を、と挨拶をして、更に歩き、名電長沢駅から今日の宿、コンフォートホテル豊川に向かった。
まぁ、普通のビジネスホテル。

少し休んでから、駅近くの「靖天」なる和食店へ夕食を食いに行った。
ミシュラン 2019 に載ったというので、期待は高い。

が……。

一口食べて「うーん」、二口食べて「うーん」。
値段が半額で、弁当なら納得できたけれど。

内装からは比較的高級路線にしたかったのだと思うが、立地の問題で集客できず、食材で妥協したのだろうな、という印象。
ただ、冬なのにおしぼりが冷たいうえ、不衛生な匂いがしたり、新しい料理を提供する際に小皿を変えなかったり、おばんざいの盛り合わせにじゅんさい豆腐が入っているにも関わらず、同時に単品でじゅんさい豆腐を頼んだ際に言わなかったり、ほかに客がおらず、店主が客を見える位置にいるにも関わらず、良いサービスであったとは言い難い。

靖天:★★☆☆☆(味もサービスも値段とは釣り合わない)

 彩り咲く十六種おばんざい 2000 円

せめて土地のものでもあればいいのに。
コースは予約のみなので、もしかしたら、コースなら、もう少しちゃんとしたものが食べられたのだろうか。

いやぁ、しかし、久しぶりに歩くと、筋肉と関節にひびくねぇ……。







1 件のコメント

  1. その土地の食、歴史、文化がわかり作者といっしょに旅してる気分になり、とても楽しい。
    今年のNHK大河ドラマ主人公の三河出身の家康や万葉集に出てくる持統天皇の縁などを知り、
    ワクワクしながら読みました。

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