20231229 天下泰平のルーツは岡崎にあり
【東海道:豊川~赤坂宿~藤川宿~岡崎宿】
朝食はバイキング。
コンフォートホテルグループは、地産地消メニューを置いていることがあるが、豊川は「赤みそ豚汁」。
愛知県産のフクユタカという大豆を利用した豆味噌(赤味噌)を使用している。米味噌や麦味噌よりも豆のうまみガツンと味わえて、長い熟成期間が独特のコクを生み出す。
コンフォートホテル豊川:★★★☆☆(基本的にフツーのビジネスホテル)
さて、諏訪町駅から電車に乗ろうとして、ホームを確認した。
昨日、名電長沢駅で、反対方向のホームに入場してしまったが、駅員がいなかったので、インターホンでわざわざ自動ゲートを開けてもらったのだ。
地方の電車では、ホームが中でつながっていないことがあるので、気を付けなければいけない。
自動改札を通る段階で、どこのホームに行くのか、留意する必要がある。
しかし、僕レベルの旅人ともなれば、その程度の罠に引っかからないのだ!
(昨日引っかかったけど)
「アレ?」
昨日乗ってきた電車と反対方向のホームに入場しようとしたが、ない。
踏切を渡り、確認したが、ホームが一つしかないのだ。
そう、豊川線は単線なのだ(同じ一本の線路で、反対方向の電車が走っている)。
語弊を恐れずいうならば、僕は都会育ちなので、単線を見ると、非日常を感じて、楽しい。
さて、名電長沢駅から東海道に戻り、旅を再開。
旧家や川沿いの街道らしい道をしばらく歩くと、国道一号線に合流。
旧道を歩く楽しみは少ないが、名鉄名古屋本線や東名高速を一望することができ、日本の物流の歴史に思いを馳せることはできる。
本宿(もとじゅく)村は、赤坂宿と藤川宿の間の村で、1604 年の東海道整備より前、鎌倉街道の時代から栄えたエリアである。
ここで国道を離れ、旧東海道へ。
すぐに行き合うのが法蔵寺。
大宝元(701)年に行基が開山。
「竹千代の8歳の時の手型が残ってるんだけど、当時は数え年でしょ。だから8歳っていっても、もっと小さいのよ。こないだ近くの小学生がきて、手を合わせたら、ちょうどおんなじくらいだったの。二年生って言ってたわねえ」
御朱印をもらった後、坊守さん(住職の妻)と少し話をした。1300年の歴史をもつ古刹であるが、にこにことした、感じのいい人である。
築300年くらいという寺務所(元は庫裏)は、剝き出しの梁が見事であった。
「ちょっと待って下さい。手を合わせたって、400年前の手型、触っちゃったんですか?!」
「ふふふ、ガラス越しよ~」
自分が家康の生地、岡崎にいるということが、なんだか不思議である。
いわゆる「文化」は、戦争のない安定した時代に花開くことが多い。
現在、日本の文化と言われるものの多くが生み出された江戸時代は、家康の先見の明がなければ持続しづらかったと思うが、その脈々とした流れは、一体、いつ、確定したのだろう。
法蔵寺のすぐ近くにある冨田病院内には、本宿の代官であった冨田家の屋敷の主屋を利用した
ユギーノ・ユーゴなるイタリアンレストランと、土蔵を利用した資料館がある。
いずれも登録有形文化財で、冨田家と、歴史研究家細井義雄氏が保存に尽力された模様。
これまでも実感してきたが、ある文化を保つには、その土地を愛し、単なる商業主義ではなく、文化を残そうとした人々の熱意がないと、難しいのだ。なぜなら、文化の保存には、予算がかかるからだ。
それでもそれは、とても価値のあることだと、僕は思う。
なぜなら、僕が僕であり、彼らが彼らであるためには、それぞれの持つ、文化的背景を尊重する必要があるからだ。
資料館も小さいが中々面白い。
文政十一(1828)年の世界地図。
明記されていないが、他の展示と合わせて考えると、冨田群蔵常業(ぐんぞうつねなり)の手によるものと思われる。
明治まであと40年。
知識人と誉れ高かった第5代当主は、何を思い、この地図を描いたのだろう。
なお、著名な現代音楽家、冨田勲の曲が流れていたので、何かと思ったら、幼少期はここで育ったらしい。
更に街道を行くと、宇都野龍硯邸の長屋門(現存)という看板がある。
でも、一向にそれらしき門は見つからない。
「それね~、半年前に崩れ落ちちゃったんだよ~」
僕が不審者のごとく、あるいは不審者そのものとして、看板の周りをうろうろしていたせいか、軽トラックからごま塩頭の男性が降りてきて、教えてくれた。
そう、形あるものは、全て滅びる。
だから、旅に出るなら、今、でなければ。
更に歩く、歩く。
国道一号線沿いの名鉄検査場の向かいにあるのが山中八幡宮だ。
ここには、三河一向一揆の際に、家康が身を隠したが、身動きで追手にあわや見つからんとしたとき、二羽の鳩が飛び立ったため「何だ、鳩か」と難を逃れたという「鳩ヶ窟」がある。
そうこうするうちに藤川の棒鼻(ぼうばな)へ。
棒鼻は「見附」と同じく、宿の境界を示す語で、広重が描いた「藤川」の浮世絵で描かれているために、棒鼻といえば藤川、藤川といえば棒鼻なのだ。
称名寺。なぜか本堂に象が置いてあるんだけど、解説なし。
宿が終わったあたりで、一旦国道に戻り「道の駅 藤川宿」へ向かった。
昼食時間である。
家康公御膳 1580円は、みかわもち豚の八丁味噌ヒレかつ、鯛の天ぷら、揚げなすの味噌だれ、産直野菜の小鉢、むらさき麦ごはん、八丁味噌のみそしるなど。
むらさき麦は江戸時代にあったとされる幻の麦で、芭蕉の句にも出てくる。
町おこしのために1994年に藤川地区で復活させたもの。
大粒でもちもちしていて、歯ごたえがいい。
家康は若い頃から健康のために、麦飯と豆味噌を食べ続けたというので、御膳を頂きながら、家康の波乱万丈の人生に思いを馳せる。
時代が変わり、歴史が変わり、よりしろが己の身であるなら、健康志向になるのも、分からんではない。
割引券をもらったので、五平餅を食い、藤川茶のペットボトルを購入。
道の駅藤川宿:★★★☆☆(食事以外にも各種土産物が買える)
傾き始めた陽は、冬の空気をわずかに橙に染める。
今日の宿は岡崎なので、もう一踏ん張り。
岡崎宿の入口にある冠木門。
城下町には、敵の進軍をスピードダウンさせるため、鍵曲(かいまがり)といわれる、曲がりくねった道が作られることが多いが、岡崎城のそれは二十七曲りと言われ、ひたすらに曲がっている。
曲げても、曲げても、不安だったのかなァ。
本陣は今は花屋となっていて、碑もない。
本陣の向かいにある菓子屋、備前屋は天明二(1782)年創立。
江戸時代に、岡崎宿の茶店「あわ雪茶屋」で「あわ雪豆腐」という料理が有名であったが、備前屋ではそれに発想を得た「あわ雪」という菓子が明治時代から有名である。
茶屋の「あわ雪豆腐」は、甘じょっぱい餡を掛けた豆腐料理だったようだが、備前屋の「あわ雪」は卵白と寒天を使った、しっとりとした、生のマシュマロと、かるかんの合いの子のような菓子である。
ちなみに備前屋は最近「あわ雪豆腐」という名の菓子を売っているけれど、これは豆乳プリンに小倉餡ソースをかけた菓子である。
さて、スーパーホテル岡崎に荷物を置いて、少し休んでから、大正庵釜春に夕飯に出かけた。
この店は、創業は明治で、当初は太田屋という名前だった。
釜揚げうどんを創始したことで有名であるが、僕が本日頼んだのは、その名も「家康公が愛したうどん煮込 1420 円」。
「駿府記」に、慶長十七(1612)年八月二十日に食べた、と記されたうどんを再現したものである。全粒粉を用いた多めの生姜を練り込んで、夏バテ対策に食べたものなのだけれど、寒くてもなかなかよろしい。
大正庵釜春:★★★★☆(江戸時代だけでなく、家康公個人にも思いを馳せられるのは、岡崎ならでは)
生貯蔵酒の冷酒は、書いてなかったが、来てみたら国盛。むろん愛知の酒である。
そうだよ、和食店を名乗るなら、土地の酒を出してくれなきゃぁ、困るんだよね。
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