20131221 世界遺産の存続は村人の生活と共にある
白川郷は以前から行きたいと思っていた.
東京からだと,新幹線を利用して名古屋経由で行くか,高速バスで飛騨高山経由で行くか,いずれかになる.いずれにしても,約6時間.今回は安くて乗り換えが少ない高速バスにした.

山梨を抜ける.懐かしい光景である.

途中,談合坂で田舎肉まんを食す.お焼きと肉まんの中間のような代物である.

諏訪湖はすでに雪景色である.先週はまだ,ほとんど雪などなかったのに.

平湯温泉IC で高速を降り,バスターミナルで10分の休憩.温泉設備も付いており,自家用車で来た際なら利用したい.

飛騨高山でバスを乗り換えるが,一時間程度待ち時間があった.
折角なので「古い町並」と呼ばれる保存地区へ行った.細格子が雰囲気を盛り上げる中,蝋燭の灯された提灯が下げられていく.

余り時間もなかったので,飛騨高山まちの博物館という無料の施設で高山藩で六代に渡り善政を敷いた金森家について眺めた.高山藩は森林率が92.5%にも及ぶため,材木を入手したかった幕府により天領となったのだ.
戦いを目的とせずに建てられた高山城は豪華なものであった.天領となった際,維持が大変であるという理由で取り壊されているが,博物館で模型を見ることができる.

高山からバスで一時間弱,宿は白川郷は荻町の「わだや」なる,合掌造りの民宿に泊まった.
「白川郷」は周辺地域を含むこともあるが,一般的には白川村のことを指し,合掌造りの集落で有名なのは,ここ白川村荻町である.
荻町バス停まで迎えに来てくれた車に乗り数分.静かな村外れであった.
中は田舎の親戚の家を訪れたような懐かしい造り.曲がった梁は,金沢で「曲がった木を自然のまま使った方が強い」と聞いたことを思い出す.
廊下側の引き戸には一応といった感じの捻締錠が付いているが,廊下に沿って並んだ部屋同士に壁はなく,木の引き戸で区切られている.鍵もないのが,僕が泊まった日は両隣とも客がいなかったので気にならなかった.
着いたのが遅かったので,すぐに夕食を頂いた.飛騨牛の朴葉焼や堅豆腐,様々な山菜,岩魚.
白川郷は和銅年間 (708-715年) から行われているどぶろく祭があるが,本日はどぶろくはないようで,飛騨古川の酒,蓬莱で晩酌.

「宜しければ…」と親父が白川郷の案内ビデオを流し始めた.
余り食事中にテレビ見るのは好まないのだが…と思いつつ,荻町の旧家,長瀬家が2001年に80年ぶりの「結 (ゆい)」で茅葺屋根を直したときの番組を眺める.
番組中で「茅葺職人」と紹介されていたのは先ほどの親父であった.
白川郷は1995年に五箇山とともにユネスコの世界遺産に登録された.
これは,建築も素晴らしいのだが「結 」と言われる,屋根を葺くときの協力の文化も含めて登録されたらしい.前述の長瀬家では,午前7時半から午後3時くらいの終了時までに約500名の協力があったという.ちなみに業者に頼むと3000万円くらいするらしく,存続を諦めざるを得ない家もあるそうだ.
わだやの親父いわく,「昔は村がこんなに価値があると思わなかったから,家を売ってしまう人も多くて….東京で食事屋さんにしたりしているようですね.そういう時代でしたし…」
昭和30年代,高度成長期に白川村から 37棟の合掌家屋が村外に流出したという.
東京で白川郷から運ばれた家屋を利用した店に行ったことを思い出し,何だか申し訳のない気分になる.
家は建てられた場所が居場所の生き物だ.そこに生きることを喜びとする人がいて,初めて真価を発揮する.
白川郷の合掌造りが注目されるようになったのは,ドイツの建築家,ブルーノ・タウトが著書「日本美の再発見」で記述したことがきっかけと言われている.1933 年から1936 まで日本に滞在した氏は,白川郷について,このように書いている.
「合掌造り家屋は,建築学上合理的であり,かつ論理的である」「この風景は,日本的ではない.少なくとも私がこれまで一度も見たことのない景色.これはむしろスイスか,さもなければスイスの幻想だ」

民宿の壁に貼られた「ホテル誘致反対」のポスターは,意味が重い.ホテルや旅館に金を落とすことと,村の風習を残すことは両立しづらい.旅を楽しむ上で,地方の特色が生きていることは重要であるが,住民の負担が重くては続かないだろう.
飯が終わり,石油ストーブが熱源の炬燵で温もっていると,バサバサと屋根から雪の落ちる音がする.
東京からだと,新幹線を利用して名古屋経由で行くか,高速バスで飛騨高山経由で行くか,いずれかになる.いずれにしても,約6時間.今回は安くて乗り換えが少ない高速バスにした.
山梨を抜ける.懐かしい光景である.
途中,談合坂で田舎肉まんを食す.お焼きと肉まんの中間のような代物である.
諏訪湖はすでに雪景色である.先週はまだ,ほとんど雪などなかったのに.
平湯温泉IC で高速を降り,バスターミナルで10分の休憩.温泉設備も付いており,自家用車で来た際なら利用したい.
飛騨高山でバスを乗り換えるが,一時間程度待ち時間があった.
折角なので「古い町並」と呼ばれる保存地区へ行った.細格子が雰囲気を盛り上げる中,蝋燭の灯された提灯が下げられていく.
高山祭は,京都市の祇園祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の一つらしい.そこかしこにある「屋台 (山車)」が収められた蔵を見上げた。これが街を練り歩いたら,さぞかし壮観だろう.
余り時間もなかったので,飛騨高山まちの博物館という無料の施設で高山藩で六代に渡り善政を敷いた金森家について眺めた.高山藩は森林率が92.5%にも及ぶため,材木を入手したかった幕府により天領となったのだ.
戦いを目的とせずに建てられた高山城は豪華なものであった.天領となった際,維持が大変であるという理由で取り壊されているが,博物館で模型を見ることができる.
高山からバスで一時間弱,宿は白川郷は荻町の「わだや」なる,合掌造りの民宿に泊まった.
「白川郷」は周辺地域を含むこともあるが,一般的には白川村のことを指し,合掌造りの集落で有名なのは,ここ白川村荻町である.
荻町バス停まで迎えに来てくれた車に乗り数分.静かな村外れであった.
中は田舎の親戚の家を訪れたような懐かしい造り.曲がった梁は,金沢で「曲がった木を自然のまま使った方が強い」と聞いたことを思い出す.
廊下側の引き戸には一応といった感じの捻締錠が付いているが,廊下に沿って並んだ部屋同士に壁はなく,木の引き戸で区切られている.鍵もないのが,僕が泊まった日は両隣とも客がいなかったので気にならなかった.
着いたのが遅かったので,すぐに夕食を頂いた.飛騨牛の朴葉焼や堅豆腐,様々な山菜,岩魚.
白川郷は和銅年間 (708-715年) から行われているどぶろく祭があるが,本日はどぶろくはないようで,飛騨古川の酒,蓬莱で晩酌.
「宜しければ…」と親父が白川郷の案内ビデオを流し始めた.
余り食事中にテレビ見るのは好まないのだが…と思いつつ,荻町の旧家,長瀬家が2001年に80年ぶりの「結 (ゆい)」で茅葺屋根を直したときの番組を眺める.
番組中で「茅葺職人」と紹介されていたのは先ほどの親父であった.
白川郷は1995年に五箇山とともにユネスコの世界遺産に登録された.
これは,建築も素晴らしいのだが「結 」と言われる,屋根を葺くときの協力の文化も含めて登録されたらしい.前述の長瀬家では,午前7時半から午後3時くらいの終了時までに約500名の協力があったという.ちなみに業者に頼むと3000万円くらいするらしく,存続を諦めざるを得ない家もあるそうだ.
わだやの親父いわく,「昔は村がこんなに価値があると思わなかったから,家を売ってしまう人も多くて….東京で食事屋さんにしたりしているようですね.そういう時代でしたし…」
昭和30年代,高度成長期に白川村から 37棟の合掌家屋が村外に流出したという.
東京で白川郷から運ばれた家屋を利用した店に行ったことを思い出し,何だか申し訳のない気分になる.
家は建てられた場所が居場所の生き物だ.そこに生きることを喜びとする人がいて,初めて真価を発揮する.
白川郷の合掌造りが注目されるようになったのは,ドイツの建築家,ブルーノ・タウトが著書「日本美の再発見」で記述したことがきっかけと言われている.1933 年から1936 まで日本に滞在した氏は,白川郷について,このように書いている.
「合掌造り家屋は,建築学上合理的であり,かつ論理的である」「この風景は,日本的ではない.少なくとも私がこれまで一度も見たことのない景色.これはむしろスイスか,さもなければスイスの幻想だ」
民宿の壁に貼られた「ホテル誘致反対」のポスターは,意味が重い.ホテルや旅館に金を落とすことと,村の風習を残すことは両立しづらい.旅を楽しむ上で,地方の特色が生きていることは重要であるが,住民の負担が重くては続かないだろう.
飯が終わり,石油ストーブが熱源の炬燵で温もっていると,バサバサと屋根から雪の落ちる音がする.
雪国の夜である.
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