20200924-1 最も聖なる地は荘厳な空気に包まれていた

宿で朝食の後,バスで内宮まで移動.今日はガイドを雇った.

時間の少し前に「お伊勢さん観光人」という法被を着たガイドを見つけた.名前は野澤さん.昔小石川に住んでいたことがあるという.

内宮は一番外側の鳥居をくぐると,五十鈴川の上にかかった宇治橋という橋がある.上部はひのき,下部はけやき (水に強い) を用いた和橋 (木の橋).昔は橋はなく,川が結界となっていた.鳥居は入るときには礼をするが,出るときには必ずしもしなくてもよいのだとか.ただ,濠があるなど結界のある場所に鳥居がある場合は,出るときにも礼をする.

宇治橋を渡ったところから真っ直ぐに参道が伸びていて,ここには江戸時代までは店が並んでいたのだという.野澤さんは「本当の参道を通りますね」と言って,川側を蛇行する細い道を進んだ.

「お伊勢さんは,観光客向けの場所ではないんです.だから案内板などはないのです」

また,古い切り株に生えた松を示し「これが私たちの姿です」と仰った.今どきの言葉でいうなら,サステナビリティ,だろうか.


江戸時代には御師 (おんし) と言われる人々が,境内の案内をしたが,彼らはまた,遠くへ行き伊勢参りを勧誘することもしたという.要するに今でいう旅行会社である.

参道の終わりには火事よけの濠があるが,その上にかかる火除橋 (ひよけばし) のところで,野澤さんは,明治時代に国道制度が出来たが,大正時代はこの火除橋と皇居の正門までが国道一号線だったと教えてくれた.

外宮は左側通行,内宮は右側通行なので,内宮は神様は左手にいらっしゃる.手水舎では神様にお尻を向けない方向で手を洗うのが通だとか.

最近はコロナの影響で柄杓は置いておらず,掛け流しの水が流れているが,その場合も左手,右手の順に手を清め,左手に水を受けて口をゆすぎ,左手を最後に再度清めるのが良いと言われた.

左側を上とする理由は諸説あるが,天照大御神が伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) の左目から生まれているためではないかと言っていた.だから右大臣よりも左大臣の方が偉いのだとも.

この手水舎は 100 年前に出来たもので,その前は五十鈴川の御手洗場 (みたらし) で身を清めていた.

五十鈴川は昔から生活排水を流すことは出来ず,大変澄んだ水であった.

それから行在所 (あんざいしょ) を案内してもらった.ここは天皇陛下がいらしたときに宿泊や休憩をされる場所である.

即位の際に天皇がいらしたが,馬車の馬は東京からきたもの.境内にある厩の馬は神事用なので,そういった際には使われないとのこと.

五十鈴川の上流の山にはミネラルが多いので,プランクトンがいい具合になり,伊勢湾は魚が美味しいと言っていたが,本当なのだろうか.

五十鈴川は二見浦で伊勢湾に合流し,そのミネラルが美味しい塩を作る.二見にある内宮の所轄社である御塩殿神社はこの海水で塩を造り,神宮にお供えしているが,一般の人も岩戸の塩と呼ばれる二見の塩を買える.

塩だけでなく,儀式に使われるものは神宮で賄っており,米は神宮神田で,野菜は神宮御園で作っている.

川の上流を見ながら,野澤さんは社殿の建て替えである遷宮について教えてくれた.

曰く,神宮に所属する 125 の神社のうち.2 つの正宮と 14 の別宮,内宮の宇治橋は 20 年に一度造り直しており,それぞれ遷宮 (社殿を移築すること) のための土地を持っている.その他の神社 (摂社,末社,所轄社) は 40 年に一度の遷宮であり,移動先の土地を持たないため,遷座といって,建て替えの間は隣の神社にご神体を移す.

遷宮の木材は 8 割が長野県赤沢国立農林のもので,2 割が上流の山からのもの.ひのきは山の中腹より上でないといいものが出来ないので,神宮の森のものではない,

その様にして切られたひのきは遷宮の際,五十鈴川を通って内宮まで川曳 (かわびき) されるが,現在では,重要な材木のみ川曳で運び,残りは車で運んでいる.なお,外宮は川がないので,陸曳 (おかびき) をするのだと教えてくれた,

遷宮の際,古い正宮の木材は,全国の神社の建て替えに使われ,小さいものはお札となるそうだ.

遷宮した時の内宮正宮の古い棟持柱 (むなもちばしら: 社殿の外で屋根の頂上 (棟) を支える柱) は,宇治橋の内側の鳥居となり,外側の鳥居は外宮の棟持柱で出来ている.

なお,伊勢神宮は 2000 年の歴史があるが,遷宮は約 1300 年前から.

まず,瀧祭神 (たきまつりのかみ) の御社を参拝.ご神体は大きな石で,柵の間から見ることが出来る,屋外宮 (やがいぐう *漢字は要確認) である.こういったお宮では,神様が普段天上にいて,お祭りのときにのみ降りてくる.これに対して,ご神体を見ることが出来ない屋内宮 (やないぐう) には,いつもそこにいてほしい神様をお祀りし,食物や衣類も捧げる.ただ,瀧祭神は所轄社 (格下) であるが別宮 (格上) と同等の祭祀が捧げられている.その理由は,恐らく,祭神はが五十鈴川の水神で社が五十鈴川と島路川の合流地点に設けられており,氾濫から守る神様だからだろう.五十鈴川が氾濫しては,内宮の安全が脅かされる.


二礼二拍手一礼の作法として今回知ったのは,両手を合わせてから右手を下げ,拍手をし,両手を合わせてから祈るということ.左手が高いのは,上記のように左を優先するためだからのようだ.

それから風日祈宮 (かぜひのみのみや) という別宮を訪れた.祭神は外宮の風宮と同じく,級長津彦命 (しなつひこのみこと)という男性の神様と,級長戸辺命 (しなとべのみこと) という女性の神様.日祈とついているのは,毎日祈るから.


風の神は風媒花 (風によって受粉する) である稲の神様でもある.

米といえば,毎年,皇居の水田を含む初めての稲穂は,勅使が伊勢へ運び,神嘗祭に使用されるそうだ,新嘗祭が新米の祭りであるのに対して,神嘗祭はあらゆる農作物の祭りである.天皇陛下は新嘗祭まで新米を口にしないのだという.なお新嘗祭は,GHQ が天皇制を廃絶しようとした際に,勤労感謝の日となったそうだ.


歩きながら江戸時代の話を聞く.江戸の町を作るころ,全国から職人が集まったが,男ばかりで,結婚できるのは一部の人のみだった.そのため,伊勢参りに行きがてら,女郎部屋に行くのが楽しみだったという.外宮と内宮の間には,鎌倉時代から色街があったそうだ.遊女は最盛期で約 1000 人.吉原が 3000 人と言うから,それなりの規模だったことが分かる.

それから御贄調舎 (みにえちょうしゃ) へ.壁のない板葺きの建物で,神事の際にあわび等の調理をする場所だという.前に建っている衝立は,命を殺める残酷な場を神様に見せないようにしているからだとも,邪悪なものが入り込まないようにしているからだとも言われている.


そして正宮へ.

「天照大御神は国の繁栄と米の豊作と天皇家の安泰を守り,天皇陛下は皇室のいやさかと米,国民のために祈ります」と野澤さん.日本国が米を重視するのも納得がいく.

一般人が参拝できるのは,板垣の内側の外玉垣 (とのたまがき) までで,その御門から中に向かって参拝する.僕が参拝するとき,風が門にかかった布を巻上げ,外玉垣の中を見ることが出来た.野澤さんは「幸運ですね!」と言った.

なお,一人 2000 円以上の寄付で外玉垣の内側に横に並んでいる白い石の上で参拝できるそうだ.その際は正装が必要.

垣根は外側から板垣,外玉垣,内玉垣 (うちたまがき),瑞垣 (みずがき) とあり,瑞垣を通るには,皇后陛下とあれど天皇陛下の許可がいるのだという.

内宮と外宮の違いについて聞くと,鰹木や千木のほかに,神籬 (ひもろぎ: 神聖な場所を示す榊) は内宮にしかないのだという.
外宮にいるときにその情報があれば,気を付けてみたのだけれど.やはり,今回は情報収集が足りなかった.

野澤さんは,南北朝の頃,神宮は南朝,天皇家は北朝で,色々あって…と言っていたが,色々の内容は聞きそびれてしまった.

また,神道の神様は伊勢系と出雲系がいるのだと話した.出雲は土地にいるが,伊勢は天から来たそうだ.

それから御稲御倉 (みしねのみくら) を訪れた.「ご飯は外宮 (豊受大御神) じゃないんですか?」ときくと,豊受大御神は毎日の食事で,御稲御倉は祭祀の食事なのだという.

この社殿は,内宮や外宮の正宮と同じ唯一神明造で.見ることのできなかった正宮をイメージすることが出来る.


すぐ横には外弊殿 (げへいでん) があり,ここには古くなった宝物が納められているそうだ.「幣」は贈り物の意.

最後に行ったのは,食の神と酒の神.両方とも衝立がある.してみると御贄調舎の衝立は,神様から残酷なものを隠すというよりも,邪悪なものから防ぐ目的である方が納得がいく.


食の神は由貴御倉 (ゆきのみくら), 酒の神は御酒殿 (みさかどの). 御酒殿では念入りに祈っておいた.

出口に向かう途中,社務所でお神酒を買った.中身は灘の酒だそうだ.

宇治橋を渡り鳥居で礼をして,ツアー終了.ガイドブックを見ながら訪問した外宮と違って,情報量の多いお詣りとなった.空気を味わうよりも,メモと写真に追われた参拝はいかがなものかと思ったが,野澤さんは「いいんですよ.伊勢の魅力を伝えてください」と寛容であった.

長くなってしまったので,後編に続く.


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