20200927 四百年前の往来
【東海道: 由比】
朝食は特記すべきことなし.
割烹旅館西山のおすすめ度: ★★★☆☆
(割烹と銘打っている割に,食事が今ひとつだった)
折角なので,町をそぞろ歩きすることにした.
宿の前の道 (県道 396 号線,または富士由比線) を一本南に入ると旧東海道.
このエリアには古い建物はないが,田舎ののんびりした空気を感じつつ,南西に向かって歩を進める.やたらに桜えび推し.
由比駅を過ぎたあたりで歩道橋があり,その向こうが東海道の続きだというので渡ると,ところどころ町家があって雰囲気がよい.
東海道と言っても,車がすれ違うのが難しいほどの狭い道.情緒があるともいう.
何故か,競輪のような恰好をした人々に数回すれ違う.由比から次の興津宿に至るまでに,薩埵 (さった) 峠という峠があるので,彼らには良いトレーニング場所なのだろうか.

更に進むと,宿でもらったパンフレットに「古い町」と書かれていたエリアに達する.町家の数は 1-2 割.その中でも昔の名主 (庄屋) の家である小池邸にお邪魔する.国の登録有形文化財.
建物は古く見えるが,明治の始めに建て替えたものだという.
元となった建物は 300 年ほど前のものだとか.庭には水琴窟,地中に埋めた容器に地上から水を回しかけ響いてくる音を聞くものだ.小池邸では竹筒が差してあり,そこから音を聞くことが出来る.ポロン,ポロン,とゆっくりとしたオルゴールのような音.
などと,見ているうちに,謎の爺さんが登場し,語り始める.今回は,色々説明してくれる人に恵まれた旅であった.
玄関を入ってすぐ右手に広がる広間は田の字型に仕切られているが,何かの際にはふすまを取っ払い,大部屋として使ったそうだ.

ちなみに,街道筋は,東海道全域にわたり,道に面した東側に入り口があるのが普通だが,小池邸は西側にある.理由は明らかでない.
小池家は,酒屋の分家で,本家は潰れてしまったという.
戸は大きい戸の中にくぐり戸があり,普段はこちらを使っていたそうだ.中を覗かれないようにする工夫.入ってすぐが店,住居,台所と区切られた建物は,大黒柱の建つ伝統的な民家の造り.

東海道は 1601 年の正月に作られた軍用道路で,由比町は家康がいざという時に馬を出すよう設けた伝馬場 (てんまば) であった.この馬は将軍しか使うことは出来なかった.
伝馬場で馬を乗り継ぎ東海道を進むため,「53 次」は「次」というのだとか.
東海道では宿場ごとに「36 人 36 匹」の人馬がいて,由比では一頭当たり 30 坪の土地が与えられ,これは年貢が課されなかった.
しかし参勤交代の際には「100 人 100 匹」の馬が必要であったが,由比は小さい村 (53 宿場町の中で,52 番目の大きさ) なので36 頭に馬を足すことができなかった.そのため,100 頭のうち 30 頭は近隣の村から馬を借りる「助互 (すけご)」 を行ったが,それでもまかりならず,50 頭を人馬ごと借りる「加宿 (かしゅく)」 をして貰ったという.
爺さんの語る伝馬の特長は,(1) 一つの村あたり 36頭の馬がいること,(2) 継ぎたて区間が割り当てられれていること (隣の宿場までの距離),(3) 積む荷物は30貫 (約 120 kg) までであること,らしい.
小池邸の前を通る東海道は三間 (約 5.4 m).東海道の太さは 2 間であったり, 4 間であったり,地形により様々.
由比宿と興津宿の間にある薩埵峠についても話を聞いた.
彼の地は元々岩木山と言われていたが,平安時代に夜な夜な光るものがあったという伝説があった.
そこで海士 (あま: 男の海女)が潜ったところ,光る地蔵菩薩を見つけたので,持ち帰った.
そして菩薩の正式名称である「菩提薩埵 (ぼだいさった)」から,薩埵峠と呼ばれるようになったとか.
この地蔵菩薩は,倉沢村にある真言宗の寺である東勝院 (とうしょういん) に安置されていたが,寺に敷地も金もないので,静岡市清水区興津井上村に安置されることになり,井上村は薩埵村と名前を変えた.なお,薩埵村は,明治時代に井上村に名前を戻している.
薩埵峠のあたりは,山に張り付くようなエリアで,地滑りが多い.そのため,東名高速はダンプカー 8 万台で埋め立てをして,海沿いに作られ,10 m の津波に耐えられるようにされたが,波高はそれを超え,高速が通行止めになることもある.
また,鞍佐里 (くらさり) 神社は,ヤマトタケルノミコトが東征の途中,鞍の一部が破れたので入れ描いたため,その名が名付けられたのだと教えてくれた.
鞍佐里神社のある倉沢村は,宿場と宿場の間の休憩所「間の宿 (あいのしゅく)」であった.これは薩埵峠が難所であったからである.倉沢村の間の宿には,「御幸亭」という,明治天皇がご休憩された離れ座敷がある.
間の宿は宿場町と違い,宿泊することは許されていなかったが,こっそり泊まる人もいて,裁きの対象となった.
他の宿場町と同様,由比には本陣 (江戸時代のエラい人や公務員が泊まる宿) があった.
本陣は一般人は泊まることが出来ず,一方で大名が泊まるときには宿泊料を取らなかった.これは,本来は幕府に与えられた土地なので,土地代がタダになるという発想である.
そのため,本陣は伝馬の手数料のみで稼いでいた.なお,大名たちは食材については金を払い,連れてきた料理人に調理をさせた.これは,毒殺を警戒したためである.
本陣に支障があった場合に泊まる脇本陣 (わきほんじん) は,大名も一般の人も泊まり,両者とも旅費を払った.食事も宿が調理し提供した.小池邸は由比の脇本陣.
おすすめ度: ★★★★☆
(たまたま爺さんが通りかかったので面白かったが,受付の淡白な女性のみではここまで面白くなかったろう)
色々と興味深い話を伺い,小池邸を後にする.
薩埵峠に向かう途中,二つ目の脇本陣,柏屋を通る.こちらも間の宿.

ここからは文化というより,体力勝負,間の宿を作らせた薩埵峠の急峻な坂…と警戒したのだが,何のことはない.一時間ほどで展望台に着いた.江戸の人がのんびりしていたということだろうか?
北東に見える筈だった富士山は,あいにくの雲で覆い隠されている.暑さが雲を生み出したか.天気が良かったことだけでも感謝しなければ罰が当たるだろう.

峠をくだり,くらさわやという飯屋に入り,海鮮丼を頼んだ.マグロ以外の魚は前の海の定置網で取れたものだという.海鮮丼の中央に載っていた桜えびは香りがよく,小さい殻にぷりぷりとした身を詰めていた.
おすすめ度: ★★★★☆
(不味くはなかったのだけれど,目の前が海という立地を考えると,もう少し頑張ってほしかった)
そろそろ帰った方がよいかと思いつつ,本陣公園と正雪紺屋 (しょうせつこうや) に寄り,清水銀行を眺める.
本陣公園は,前述の大名の宿で,今では広重美術館を擁する公園になっている.明治天皇が小休止された離れ座敷を復元した記念館もあるが,まぁ,さらっと見る感じ.
割烹旅館西山のおすすめ度: ★★★☆☆
(割烹と銘打っている割に,食事が今ひとつだった)
折角なので,町をそぞろ歩きすることにした.
宿の前の道 (県道 396 号線,または富士由比線) を一本南に入ると旧東海道.
このエリアには古い建物はないが,田舎ののんびりした空気を感じつつ,南西に向かって歩を進める.やたらに桜えび推し.
由比駅を過ぎたあたりで歩道橋があり,その向こうが東海道の続きだというので渡ると,ところどころ町家があって雰囲気がよい.
東海道と言っても,車がすれ違うのが難しいほどの狭い道.情緒があるともいう.
何故か,競輪のような恰好をした人々に数回すれ違う.由比から次の興津宿に至るまでに,薩埵 (さった) 峠という峠があるので,彼らには良いトレーニング場所なのだろうか.
更に進むと,宿でもらったパンフレットに「古い町」と書かれていたエリアに達する.町家の数は 1-2 割.その中でも昔の名主 (庄屋) の家である小池邸にお邪魔する.国の登録有形文化財.
建物は古く見えるが,明治の始めに建て替えたものだという.
元となった建物は 300 年ほど前のものだとか.庭には水琴窟,地中に埋めた容器に地上から水を回しかけ響いてくる音を聞くものだ.小池邸では竹筒が差してあり,そこから音を聞くことが出来る.ポロン,ポロン,とゆっくりとしたオルゴールのような音.
玄関を入ってすぐ右手に広がる広間は田の字型に仕切られているが,何かの際にはふすまを取っ払い,大部屋として使ったそうだ.
小池家は,酒屋の分家で,本家は潰れてしまったという.
戸は大きい戸の中にくぐり戸があり,普段はこちらを使っていたそうだ.中を覗かれないようにする工夫.入ってすぐが店,住居,台所と区切られた建物は,大黒柱の建つ伝統的な民家の造り.
伝馬場で馬を乗り継ぎ東海道を進むため,「53 次」は「次」というのだとか.
東海道では宿場ごとに「36 人 36 匹」の人馬がいて,由比では一頭当たり 30 坪の土地が与えられ,これは年貢が課されなかった.
しかし参勤交代の際には「100 人 100 匹」の馬が必要であったが,由比は小さい村 (53 宿場町の中で,52 番目の大きさ) なので36 頭に馬を足すことができなかった.そのため,100 頭のうち 30 頭は近隣の村から馬を借りる「助互 (すけご)」 を行ったが,それでもまかりならず,50 頭を人馬ごと借りる「加宿 (かしゅく)」 をして貰ったという.
爺さんの語る伝馬の特長は,(1) 一つの村あたり 36頭の馬がいること,(2) 継ぎたて区間が割り当てられれていること (隣の宿場までの距離),(3) 積む荷物は30貫 (約 120 kg) までであること,らしい.
小池邸の前を通る東海道は三間 (約 5.4 m).東海道の太さは 2 間であったり, 4 間であったり,地形により様々.
由比宿と興津宿の間にある薩埵峠についても話を聞いた.
彼の地は元々岩木山と言われていたが,平安時代に夜な夜な光るものがあったという伝説があった.
そこで海士 (あま: 男の海女)が潜ったところ,光る地蔵菩薩を見つけたので,持ち帰った.
そして菩薩の正式名称である「菩提薩埵 (ぼだいさった)」から,薩埵峠と呼ばれるようになったとか.
この地蔵菩薩は,倉沢村にある真言宗の寺である東勝院 (とうしょういん) に安置されていたが,寺に敷地も金もないので,静岡市清水区興津井上村に安置されることになり,井上村は薩埵村と名前を変えた.なお,薩埵村は,明治時代に井上村に名前を戻している.
薩埵峠のあたりは,山に張り付くようなエリアで,地滑りが多い.そのため,東名高速はダンプカー 8 万台で埋め立てをして,海沿いに作られ,10 m の津波に耐えられるようにされたが,波高はそれを超え,高速が通行止めになることもある.
また,鞍佐里 (くらさり) 神社は,ヤマトタケルノミコトが東征の途中,鞍の一部が破れたので入れ描いたため,その名が名付けられたのだと教えてくれた.
鞍佐里神社のある倉沢村は,宿場と宿場の間の休憩所「間の宿 (あいのしゅく)」であった.これは薩埵峠が難所であったからである.倉沢村の間の宿には,「御幸亭」という,明治天皇がご休憩された離れ座敷がある.
間の宿は宿場町と違い,宿泊することは許されていなかったが,こっそり泊まる人もいて,裁きの対象となった.
他の宿場町と同様,由比には本陣 (江戸時代のエラい人や公務員が泊まる宿) があった.
本陣は一般人は泊まることが出来ず,一方で大名が泊まるときには宿泊料を取らなかった.これは,本来は幕府に与えられた土地なので,土地代がタダになるという発想である.
そのため,本陣は伝馬の手数料のみで稼いでいた.なお,大名たちは食材については金を払い,連れてきた料理人に調理をさせた.これは,毒殺を警戒したためである.
本陣に支障があった場合に泊まる脇本陣 (わきほんじん) は,大名も一般の人も泊まり,両者とも旅費を払った.食事も宿が調理し提供した.小池邸は由比の脇本陣.
おすすめ度: ★★★★☆
(たまたま爺さんが通りかかったので面白かったが,受付の淡白な女性のみではここまで面白くなかったろう)
色々と興味深い話を伺い,小池邸を後にする.
薩埵峠に向かう途中,二つ目の脇本陣,柏屋を通る.こちらも間の宿.
北東に見える筈だった富士山は,あいにくの雲で覆い隠されている.暑さが雲を生み出したか.天気が良かったことだけでも感謝しなければ罰が当たるだろう.
おすすめ度: ★★★★☆
(不味くはなかったのだけれど,目の前が海という立地を考えると,もう少し頑張ってほしかった)
そろそろ帰った方がよいかと思いつつ,本陣公園と正雪紺屋 (しょうせつこうや) に寄り,清水銀行を眺める.
本陣公園は,前述の大名の宿で,今では広重美術館を擁する公園になっている.明治天皇が小休止された離れ座敷を復元した記念館もあるが,まぁ,さらっと見る感じ.
近くにある正雪紺屋は,江戸時代初期に幕府転覆を計画した由比正雪 (しょうせつ) の生家.火事の際に家財を持ち出すためという「用心籠」は,梁の上に置かれ,いざというときに使用できるのか心配である.なお,二つあった籠のうち,一つは以前,取材のために一階に下したそうだが,「戻せなくなっちゃんですよね」と店員は笑った.
さてもういい時間だ.東京に帰ろう.
清水銀行由比支店本町特別出張所は,大正時代に作られた登録有形文化財で,イオニア式柱頭を持つクラシックな建物.今でも使用されているが,日曜なので入ることが出来なかった.
↓ にほんブログ村: クリックお願いします!
表題のネーミングが誌的でどんな旅かと楽しみ。
返信削除写真と謎の爺さんの話など丁寧な解説で共に旅をしてる気分。
四百年前に東海道を歩いていた旅人も由比や、さった峠から今と同じ海や山を見てたと
時空を超えて思いをはせる。
ポロンポロンという水琴窟の音が心地いい。